私はフィリピンのマニラで生まれ育った者の(今までの言い方を使いますと)「ハーフ」です。父は京都出身の人で、母は中央フィリピンにあるパナイ島出身の人ですが、不思議な巡り合いで、大いに異なる二つの世界、二つの文化からきた二人は愛によって結ばれ、私はその間から生まれたのです。
子供の頃、学年のはじめに、小学校の先生が生徒名簿の確認をするときに、私の名前を呼んだら、たいてい、次のシナリオになりました。「サート」(沈黙)・・・「サトウ」?、「君はフィリピン人じゃないよね」という質問がよくありました。
そのような体験から、自分は、多少、他の子供たちと違うのだということに気づきました。自分はフィリピン人だと感じる時もあれば、どうも、そうでないと感じる時も確かによくありました。子供ながらも、「じゃ、ぼくはいったい何者なの?」と自問したこともありました。これは私のような「ハーフ」がよく体験する、いわゆるアイデンティティー・クライシスというものなのです。自分は半分しかないように感じ、自我が中途半端なものに見えることからくる現象です。
その疑問に答えるために、ある人は自分のルーツを探し求めようと決心するのです。私は自分のルーツを求めに、二十年前にフィリピンから日本に移ることにして、その時から、いろいろな形で日本人としての自分というものにも感動しながら目覚めました。
ところが、「自分が半分しかない」という感覚に戻りますが、やはり「ハーフ」という言い方に問題があると、最近よく指摘されます。ハーフとは「半分」「中途半端」というニュアンスをもつ言い方なので、そう呼ばれる人は知らず知らずのうちに自分が半分の人間に過ぎないと考えてしまいがちです。
しかし、考えてみると、普通の場合、子供は特定の文化、環境で育つものですが、私たちのようなハーフの場合はひとつではなく、二つの文化の中で育つものなので、むしろ、普通の人よりも、豊富な体験をしているはずです。そういう人はどうして「ハーフ」、(半分)と呼べるのでしょう。むしろ、「ダブル」(二重)と呼んだほうが正確ではありませんか。やはり、そう考えると、私はハーフ・・・、いや、ダブルで、ホントに良かったと思います!
本当にそう思います。多文化を深く生きることができる人は、そんなに多くいません。JKさんは半分なんかではなく、二重、あるいは、多重(マルチ)ですよね。単一文化しか知らず、そんな環境で生きるより、モノの見方、受け入れ方、感じ方が深くなるのだと思います。すばらしいです。最初のブログを読みながらも、そう感じました。
ReplyDeleteそして、日本とフィリッピンの両方を愛し、豊かな人生を送ってこられたお父さまに会えたことは、本当にありがたい(とても貴重な、普通にありえない)ことです。今の私たちがあるのは、彼に支えられてのこと!感謝でいっぱいです。イエス、マリア、ヨゼフのご保護を祈っています。